土方歳三の生涯

土方歳三の生涯

多摩・試衛場

天保6年(1835年)、武州武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)に農家の土方義諄(隼人)と恵津の間に生まれる。10人兄弟の末っ子であった。

土方家は「お大尽(だいじん)」と呼ばれる多摩の豪農であったが、父は歳三の生まれる3か月前の2月5日に結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときの天保11年7月1日(1840年7月29日)に結核で亡くなっている。

また長兄の為次郎は眼疾のため、次兄の喜六が家督を継ぎ隼人を襲名、その妻・なかによって養育された。

生家には、歳三が少年のころに「我、壮年武人と成りて、天下に名を上げん」と言って植えたという「矢竹」がある。

定説?では、11歳のときに江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」(現・松坂屋上野店)へ奉公に上がり、すぐに番頭と喧嘩をして郷里に戻ってきたと伝えられていたが、近年発表された石田村の人別帳控により、数え年11歳のときは石田村に在住しており、奉公には出ていないことが判明した。

欠損もあるが、この人別帳から、歳三が奉公に出ていたのは数えで14歳〜24歳の10年間と考えられるようになった。

また17歳のときに松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町の木綿問屋(上野店の鶴店に対し、亀店(かめだな)と称された)に奉公に上がり、そこで働いていた年上の女性を妊娠させてしまうといった問題を起こして郷里に戻ったという説もあるが、前述の人別帳の存在から現在ではその信憑性が疑問視されており、どこへ奉公していたかは詳しく判明していない。

その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で試合を重ね、修行を積んだ。

姉・らんは姉弟の従兄弟でもある日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり、歳三も彦五郎宅にはよく出入りしていたと言われる。

彦五郎は大火に乗じて祖母を目の前で殺害され、周囲や自らの身の危険を感じたことを契機に井上源三郎の兄・井上松五郎の勧めで天然理心流に入門し、自宅の一角に道場を開いていた。

そんな縁から彦五郎は試衛館の近藤勇と義兄弟の契りを結んでおり、天然理心流を支援した。

歳三はその稽古場に指導に来ていた近藤と出会い、安政6年(1859年)3月29日、天然理心流に正式入門している。

文久元年(1861年)、近藤が天然理心流4代目宗家に襲名。記念に紅白の野試合が催され、歳三は紅組の大将を守る役で出場した。

文久3年(1863年)2月、試衛館の仲間とともに、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂警護のための浪士組に応募し、京都へ赴く。

新選組副長

文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変後、壬生浪士組(正式な名称ではない)の活躍が認められて新選組が発足。その後、新見錦が切腹(最期については諸説あり)。芹沢鴨も土方らによると見られる暗殺で横死し、権力を握った近藤が局長となった。歳三は副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安維持等にあたった。新選組は副長助勤、監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。

元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件の際は、半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して回ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、ただちに突入せずに池田屋の周りを固めた。池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。さらに幕府から、近藤を与力上席、隊士を与力とする内示があったが、その時は実現には至らなかった。

戊辰戦争

慶応3年(1867年)6月、幕臣に取り立てられる。しかし同年10月14日、徳川慶喜が将軍職を辞した(大政奉還)。12月9日に王政復古の大号令が発せられるに至り、江戸幕府は事実上終焉した。

慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の攻勢の前に敗北する。

その後、江戸城に登城した歳三は、佐倉藩江戸留守居役の依田学海に戦況を尋ねられると、「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語り、洋式軍備の必要性を改めて痛感したとされる。

もっとも、歳三は鳥羽・伏見の戦いで敗北する以前の文久3年にはすでに壬生寺の境内において銃や大砲の洋式訓練を行っており、その年の八月十八日の政変では実際に銃を使用し、果敢に長州勢を打ち払ったという記述も存在する。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大坂から江戸へ撤退したあと、近藤は大久保剛、歳三は内藤隼人と偽名を名乗り、新撰組を「甲陽鎮撫隊」に改名して甲斐国に向かう。

しかし3月6日、甲州勝沼の戦いにて大敗。歳三は戦争前に急ぎ援軍要請へ向かったが成功しなかった。

その後、流山で再起を図っていたが、4月3日、新政府軍に包囲された近藤が大久保大和と名を偽り投降。このとき、歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたと言われている。

歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、慶応4年(1868年)4月25日、近藤は板橋刑場にて斬首に処せられた。

近藤投降後、助命嘆願のかたわら新選組を斎藤一改め山口二郎に託して会津へ向かわせ、島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流。

4月11日に江戸開城が成立すると江戸を脱出し、歳三は秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務めた。

下館・下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させる。しかし壬生の戦いに敗れ、新政府軍と宇都宮で再戦した際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることとなった。

会津で約3か月間の療養生活を送り、この間に近藤の墓を天寧寺内に建てたと言われる。

全快して戦線に復帰したあとは、その指揮を山口二郎(斎藤一)に委ね、山口の支援をしつつ会津の防戦に尽力するが、8月に母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化。

歳三は援軍を求めて庄内藩に向かうが、すでに新政府軍への恭順に転じていた庄内藩においては入城さえ叶わなかった。

歳三は会津から仙台藩へ向かうことを決めた。同じように戦列を離れた大鳥に対して、山口らは会津藩に忠誠を尽くすべきだと訴えたということが、箱館戦争後に現在の青森県で記録された古文書にある。

土方は、会津藩領では新選組に復帰してはいなかった。そして、城下に残る山口らと、仙台へ天寧寺から離脱した隊士たちとに新選組は分裂する。

仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。榎本とともに奥羽越列藩同盟の軍議に参加した。

まもなく奥羽越列藩同盟が崩壊し、同盟藩が次々と新政府軍に降伏したあとは、新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船し、榎本らとともに10月12日仙台折浜(現宮城県石巻市折浜)を出航し、蝦夷地に渡った。

箱館戦争と死

10月20日、蝦夷地鷲ノ木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かった。新選組は総督大鳥圭介のもとで本道を進んだが、歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたという。

箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍して松前城を陥落させ、残兵を江差まで追撃した。

このとき、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁。

江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松の木を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っている。

江差を無事占領した歳三は、松前城へ一度戻り、12月15日に榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋した。

その後、幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立し、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。

箱館の地でも歳三は冷静だったという。箱館政府が樹立され、榎本らが祝杯を交わしている時も歳三は1人沈黙を保ち、「今は酒を飲み浮かれるときではない」と言っていたとされる。

1月から2月にかけては箱館・五稜郭の整備にあたり、3月には新政府軍襲来の情報が入ったため、歳三は新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加。

しかし作戦は不運続きで失敗。多数の死傷者が出るも、歳三は生還する。

明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。

その戦闘中に新政府軍は鈴を鳴らし、包囲したと思わせる戦術をとった。これに土方軍の将兵は動揺したが、歳三は「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。

また、戦いの合間に、歳三は部下たちに自ら酒を振る舞って回った。そして「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言ったため、部下は笑って了承したという。

土方軍が死守していた二股口は連戦連勝したが、もう一方の松前口が破られ、包囲される危険性があった為、やむなく撤退、五稜郭へ帰還した。

明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立、歳三は救出のためわずかな兵を率いて出陣。

箱館港にて「蟠竜丸」が新政府軍艦「朝陽丸」を撃沈したのを見て「この機失するべからず」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役大野右仲に命じて敗走してくる味方を押し出し、「我この柵にありて、退く者を斬らん」と宣告した。

歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。馬上で指揮を執った。

最期については諸説あるが、歳三は乱戦の最中に腹部に被弾、落馬したとされる。彼の命令によって台場方面に進軍していた大野率いる兵士らは、一時勢力を盛り返していたが、必死の指揮も空しく総崩れとなった。

大野がやむを得ず引き返したところ、同じく陸軍奉行添役の安富才助から歳三が撃たれたことを知らされたという。大野は急いで駆けつけたが、歳三は既に絶命していたとされる。

享年35(満34)。

奇しくも盟友・近藤と同じ享年であった。榎本軍が降伏したのはその6日後のことだった。

辞世

1、よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ

2、たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん

3、鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすはかばねの上に照かと

上記のうち土方の辞世は1か2のような歌だとされてきたが、霊山歴史館の木村幸比古は島田がまとめたとされる和歌集の巻頭歌すなわち上記の3が、土方の辞世だという説を述べている。

墓所

歳三の遺体は小芝長之助らに運ばれ、ほかの戦死者とともに五稜郭内(一本松の土饅頭)に埋葬されたとの説があるが、別の場所の説もあり未だに埋葬場所は確定していない。

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